👓 酷評も愛情のうち
本日、ラジオ生放送ですが、ワタクシ眠気に負けます。あとはPCさまさま、録音よろしく!
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フラゲの日から、某板では酷評が幾つか上がっていました。
あの板は人の心を蝕んでいくような言葉が並ぶことが多く、匿名の特性なのでしょう。多面的な心の中には、時に毒も吐きたければ、誰かを引き摺り下ろしたくなるような邪悪な思いも存在するものです。「これが人の心理」と受け止めつつも、スルーするスキルや安易に信用しない知識も持ち合わせているつもりですが、それはターゲットが私ではないからできることで、この矛先が自分だとしたら、どんな気分になるのでしょう。
過去に、この手の板によって酷く負傷した彼が居ることを知ってるはずなのに、人はズルい生き物です。自分の名前も顔も住所も人格も、何も表面に出すことなく一方的に酷評するのは卑怯です。
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一方、人の感性は多種多様で、どう感じるのかはその人次第です。特に芸術の世界は、基礎はあってもあとはpassionやinspirationで構成されていたり、各自の好みがあったりと、evidenceが重視される科学の世界とは対極にいるよう。なので、どのように感じようと自由であるということは、酷評する方はそのように感じただけです。
芸術品に関するdetailは、作者のみぞ知ることであり、特にあえてコメントしない靖幸氏においては(彼の本意か否かは定かではありませんが)解釈はリスナーに委ねられています。しかし、その「委ね」の中には、リスナーの「自由な解釈」と「作者の意図の解釈」の双方を含んでいるのではないかと推察するのです。
作者の意図を前面に出せば、芸術品の枠が定まってしまう。なのでリスナーの自由度を設定して枠を広げて可能性を高めようと。しかし、作者にとって作品は手塩に掛けた一品ですから、汲み取って欲しい部分もあるはず。そのように考えていくと、酷評する方は、芸術家である彼のdetailに触れるというスタンスではなく、自分の好みを押し付けているような印象を受けました。
とはいえ、酷評している方も、あそこに載せていることが本心か否かはわかりません。酷評という行動の前には、「予約」という行動をしていたり、手に入れてからは一通り聴いてみたり、何回かリピートしてみたり・・。そうした結果、「自分の想像と異なっていた」ということを述べているのであって、結局根底にあるのは、靖幸への「愛情」だったんだなということに落ち着きました。
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Web上には、コード進行がすごい!という言葉や、何やら音楽の専門用語が並んでいる方もいらっしゃいます。残念ながら私には一切分かりません。感覚的に「耳に心地よい流れ」ということや、「音の繰り方がキレイ」程度です。しかし「平熱大陸」にあるBAOBAOのmaking映像で、一つひとつの音の作り方を垣間見て、改めて「Whatever」の「音」を丁寧に、大事に、聴いていこうと思っています。
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彼の意図云々と言ってきましたが、酷評も愛情のうち。
ひとつだけ、彼に物申したいことがあります。
それは、新時代思想の歌詞を見て発覚した「死にそう」というフレーズです。
「しそう」で韻を踏んでいるのは彼の特徴なのでそれはいいのですが・・ね。
今では「死」という言葉がとてもカジュアルな感じで使われるようになり、衝撃を表現する慣用句のような使われ方をしています。または、ゲームオーバーのようなニュアンスで「死」という言葉を使う世の中になっているようです。
毎回生々しい話でしょうが、私は、今から遡ること12時間の間に、お二人の人生の終焉に立ち会い、お一人の命を救う場面に遭遇し、もうお一人は生命危機に陥る前に救うことができました。
職業的に、他の方より「死」が身近で、普通の方が人生の中で遭遇する「死」の何百倍も体験します。ある意味、日常の中に「死」があるので、流れ作業的に死を扱ってしまいがちですが、そうなってはいけないと自制してるところもあります。だから敏感になってしまうのかもしれませんが、人の死は決してカジュアルなものではありません。安易に使う言葉でもありません。そういう意図ではないのかもしれませんが、「生きていたくても 生きれない方がいる」ということを忘れないでくださいね。
👓 オシマイ